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図書新聞経済時評1998.10.24

 

貨幣論を読む2

――貨幣論の課題は何か

 

橋本努

 

 かつてマルクス経済学者たちは次のように貨幣を問うた。すなわち、いま流通している貨幣は、価値実体のない「紙きれ」にすぎないのに、人々はどうしてそれを価値あるものと錯認して欲するのだろうか、と。しかしいまや、われわれは次のように問わねばならないだろう。人々は貨幣を「紙切れ」であると知っているにもかかわらず、どうしてそれを欲するのか。つまり、人々は貨幣の物神性を認識しているにもかかわらず、現実の行為においてはどうしてその物神性を受け入れてしまうのだろうか。大澤真幸氏によれば、それは、貨幣を欲する〈他者〉の存在を、人々が共通に想定しているからである。貨幣という空虚な存在を欲求する〈他者〉いれば、その〈他者〉へ貨幣を受け渡すために、貨幣を流通させることが可能となる。その場合に生じる貨幣物神は、自らの行為において想定されるとはいえ、その帰属先は〈他者〉である。個々人はこの〈他者〉によって物神性の崇拝を免れ、自由な主体として貨幣を便宜のために利用することが可能になっている(『恋愛の不可能性について』春秋社、一九九八)。

 右の大澤氏の議論は、基本的に岩井克人氏の貨幣論を継承して、そこに物神性の議論を展開したものである。これに対して降旗節雄氏は、岩井氏の貨幣論に批判的で、次のように議論を展開している(降旗節雄貨幣の謎を解く』白順社、一九九七)。

 氏によれば、資本主義とは市場経済が全面的に自立化したシステムであり、それは金本位制の社会である。金本位制は帝国主義段階に確立したもので、その時期は貿易や資本移動が世界的規模で拡大した最も平和な発展期であった(日本において資本主義が成立したのは、一八九七年から一九三一年)。しかし現在の経済社会は金本位制ではないから資本主義社会でもない。金本位制の崩壊以降、第二次世界大戦、ブレトンウッズ体制の崩壊、アジア通貨危機等々、資本主義の構造的な解体が続いているが、この期間は、一方では「貨幣価値の保証なきグローバルな危機」として、他方では「国家と資本との経済の共同管理」として位置づけられるという。

 こうした降旗氏の認識から得られる政策的含意は、「貨幣は、もはやその本質である金を根拠にしていないが、国家がその信用を管理しうるから、辛うじて貨幣たりえている」という認識である。

 降旗氏のように現代の貨幣経済の危機的側面を強調する人々は、アジア通貨危機に焦点を合わせている。これに対して貨幣システムの新たな進化に期待を寄せる人たちは、電子マネーに注目しているようだ。須藤修/後藤玲子電子マネー』(ちくま新書、一九九八)は、電子マネーに関する議論の動向を一通り紹介しているが、その内容は次の二つに大別できるだろう。一つは、電子マネーの導入が日本の経済成長にとって大きな貢献になるという主張であり、もう一つは、電子マネーの導入には国際的な調整が必要であり、グローバルな基準で法制度を整備しなければならないという主張である。

 電子マネーは、貨幣概念に照らして二つに区別することができる。一つは決済「手段」を電子化したもので、例えばICカード型の貨幣などは、偽造や複製や現金盗難といった「リスク」を低減することができる。もう一つは、決済「方法」を電子化したもので、利用者はそれによって低コストで口座から口座に資金を移動することができる。現在、クレジットカードの利用手数料は平均五%であるが、ドイツのゲルトカルテという電子マネーでは、それが〇・二%になる。ドイツ政府は現在、ゲルトカルテを国民全員に配って普及させ、一九九九年には社会保険手帳と連動させることによって、消費者の利便性を高めようとしている。日本でも一九九五年に通産省の主導で、電子マネーの実証実験プロジェクトが開始された。九九年には日銀とNTTが共同開発した「スーパーキャッシュ」が、新宿地区限定で実験される予定である。

 こうした電子マネーの開発は、基本的には国家主導でありながら、そのルール形成は民間主導に任せるという側面をもっている。そこで貨幣論の新たな課題は、現行の貨幣を高次化する「電子マネー」に対してにしてどのような流通根拠を与えることができるのか、という問題になるだろう。

(経済思想)